瀬古利彦のしくじり授業まとめ「実力は世界一なのに五輪だけ勝てない」


実力があるのに本番でしくじらない為の授業
しくじり先生:瀬古利彦

瀬古利彦のプロフィール

生年月日:1956年7月15日(60歳)
出身地:三重県

世界最強と言われた元マラソンランナー
DeNAランニングクラブ総監督

1980年代、日本のトップランナーとして君臨した瀬古利彦
数々の国際大会で勝ち続け、その優勝回数はなんと10回

1984年のロサンゼルスオリンピック
1988年のソウルオリンピック
2大会続けて五輪に出場
国民的スターとして名を馳せたマラソン界のレジェンド

優勝した国際大会の一覧

  • 1978年 福岡国際マラソン
  • 1979年 福岡国際マラソン
  • 1980年 福岡国際マラソン(3連覇)
  • 1981年 ボストンマラソン
  • 1983年 東京国際マラソン
    福岡国際マラソン
  • 1986年 ロンドンマラソン
    シカゴマラソン
  • 1987年 ボストンマラソン
  • 1988年 びわ湖毎日マラソン

ロサンゼルス五輪、ソウル五輪では金メダル間違いなしと言われていたが、ロス五輪では14位、ソウル五輪では9位だった
オリンピックになると毎回ダメ

実力は世界一だけどオリンピックでは勝てない

実力があるのに結果が出せない人の実例

  • 絶対に受かると言われている大学受験で実力が出せず落ちてしまう学生
  • 普段は就職面接でハキハキ話せるのに本命の会社の面接でうまく話せない就活生
  • 普段ライブで大爆笑なのにM-1の結晶でイマイチな芸人
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第一章
瀬古利彦の「しくじりマラソン」スタート!
実力世界一のランナーがロス五輪で惨敗するまで

小学校の頃の夢はプロ野球選手だった
アニメ「巨人の星」の星飛雄馬に憧れていた

星飛雄馬の父親の星一徹が「野球で上手くなりたかったら走りなさい」と言うのを見て「野球選手になるには走るんだ」と思った

家から小学校まで1.5kmの道、往復3kmを夜な夜なほぼ毎日走っていた
中学でも家から5kmあったが毎日往復10km走っていた

走っていたのは部活が終わってから自主練として

そうしているうちに陸上部の顧問から「助太刀で陸上大会に出てくれ」と言われ出場した結果、県の新記録を出して県大会2冠を達成
この経験で野球より陸上のほうが向いていると思った

そして陸上の名門四日市工業高校に入学
勉強そっちのけでじゃんじゃん走りまくった

中・長距離で全国大会8冠を達成

高校2年
インターハイ
800m 優勝
1500m 優勝

国体
1500m 優勝
5000m 優勝

高校3年
インターハイ
800m 優勝
1500m 優勝

国体
1500m 優勝
5000m 優勝

全国15チームぐらいから勧誘があり、父親と相談した結果、憧れの早稲田大学の進学を目指す
当時はスポーツ特待生の制度はなかった

受験の結果、余裕で不合格

その後、早稲田大学から「アメリカ留学した方がいい」と言われた
1年間日本で遊んでいてもしょうがない

浪人しながらアメリカでの陸上生活が始まった

渡米2ヶ月後、食べ過ぎで10kg激太りw
ホームシックになり食べることでストレス解消していた

才能だけでやってきたので自己管理という感覚がなかった

さらにアメリカの自由なオーラに影響されて練習そっちのけで金髪のガールフレンドとディスコ通いに明け暮れていた
英語は話せなかったが問題なかったw

アメリカの自堕落な生活を送っている間、アメリカでも試合に出たが人生初の大惨敗
タイムも渡米前に比べると落ちていた

人生初の大惨敗から学んだ教訓
コツコツ積み上げた努力も気を抜けば一瞬で堕落する

人は少しづつしか成長ないが、怠けたり気を抜いたりすると落ちていくのは一瞬

その後、必死に勉強して翌年早稲田大学に合格

その頃もまだ10kg太ったまま
まともに走れる状態ではなかった

4年間で1回くらい箱根駅伝に出て誤魔化しておいて、それ以外は女子大学生と合コンしていればいいと思っていたw

選手としての最悪の状況の中で、恩師・中村清監督と出会う

中村監督は初対面で自分の顔を本気で叩きまくった
「弱い早稲田になったのは大人のせいだ これで許してくれ」と30発
鼻と口から血が出てくる

中村監督はさらに砂を食べまくった
「この砂を食べることで世界一になれるなら食べられるか?俺なんか簡単だ」

そこで監督に「瀬古、今日からマラソンやりなさい 私が必ず世界一にしてやるから一緒にやろう」と言われた

そして中村監督との練習が始まった

中村監督考案 瀬古利彦の練習スケジュール

6:00~7:00 朝練習で20km走
8:30~14:00 大学の授業
15:00~18:00 昼練習で40km走
19:00~21:30 中村監督宅で講義

この時言われたことで一番心に残っている言葉
「努力する天才になりなさい」

アフリカの選手の身体能力を見なさい
欧米選手の脚の長さを見なさい
同じ練習してたら勝てない

だから努力する事にかけては誰にも負けちゃいけない

さらに世界一になるために厳しいルールもあった

世界一になるための厳しいルール

  • 練習中に水を飲むのは禁止
  • 練習中の私語禁止
  • 長髪禁止
  • 外食禁止
  • 友達作るの禁止
  • 恋愛禁止

福岡国際マラソンへの出場
福岡国際マラソンは世界のトップ級の選手が集まる大会

レース結果は日本人最高の5位入賞

その時まで監督が言っていた世界一に対して半信半疑だったがこの時自信に変わった

翌年再び福岡国際マラソンにエントリー
後にライバルとなる双子最強ランナーの宗兄弟もエントリーしていた
宗兄弟の兄は世界第二位の記録を持っていた

結果は当時の世界歴代10位の好記録で優勝!
最強双子ランナーを撃破

この時瀬古利彦は絶対にオリンピックで金メダルを獲れると自信が確信になった

成功から得教訓
ライバルの存在が自分の実力を高める

切磋琢磨するとお互い成長する

翌年の福岡国際マラソンでも優勝し連覇
そして大学4年の頃、モスクワ五輪の代表に決定

大学卒業後、エスビー食品の陸上部に入る
中村監督もコーチとしてエスビー食品にきてくれた

ところがモスクワ五輪7ヶ月前、オリンピック開催国ソビエトによるアフガニスタン侵攻
その結果、アメリカはモスクワ五輪への不参加を表明
続いて日本も不参加を決定

モスクワ五輪では200%優勝する自信があった

モスクワ五輪の4ヶ月後、福岡国際マラソンで、モスクワ五輪の金メダリストを撃破して優勝
さらに世界の強豪が集結したボストンマラソンで大会新記録で優勝

2つの国際大会での優勝によりロサンゼルス五輪の金メダル候補と言われるようになる

そんな時、調整のために行ったヨーロッパ遠征にて足をひねって全治1年10ヶ月の大ケガ

怪我をした原因は、日光浴をしていた全裸の女性に見とれていたからw

北欧は夏が短いので公園では全員が裸になっていた
全全全裸w

最悪のしくじりでおよそ2年間もレースから遠ざかることに・・・

しかし怪我の完治後は努力の天才に戻り猛特訓
復帰戦となった東京国際マラソンで優勝

そして福岡国際マラソンに再度出場
ライバルはジュマ・イカンガー

ラスト100mでスパートをかけ優勝!

国際大会で連覇したことで世間ではスーパー瀬古フィーバー到来
外を歩けないぐらいだった

スーパー瀬古フィーバーの内容

  • 練習コースに人が集まりすぎて警察が警備
  • はとバスが立ち寄って練習を見学
  • 美空ひばり、北島三郎が車から応援

このフィーバーで瀬古利彦は「もし金メダルが獲れなかったどうしよう・・・」と思うようになった

不安な気持ちを消すには練習しかないと、更に練習量を増やした結果、五輪のレース2週間前にとんでもない過労で大量の血尿が出た
トイレが真っ赤っ赤なのを見た瞬間「終わった」と思った

そんな状況で臨んだロス五輪は金メダル候補のはずが14位と惨敗

本番前は気持ちを落ち着かせ自分と向き合う時間を作ることが大切

バッシングされると思っ帰国したが全然叩かれなかった
それは中村監督が「瀬古のお見合い相手を募集します」と別の話題をぶち上げたから

5日後にはダンボール3箱分のお見合い写真が届いた
そのお見合いで本当に結婚

しかし、結婚式の3週間前に中村監督が事故で急死

第二章
瀬古利彦の「しくじりマラソン」折り返し
恩師を亡くし更にソウル五輪惨敗 引退へ

中村監督が亡くなり、4年後のソウル五輪に向けてとてつもなく不安になった

そんな中新たなライバルが出現
マラソン界の異端児 中村竹通

マスコミに「瀬古さんなんか大したことない」と発言

世間ではベテラン瀬古 VS 若手のホープ中山の構図になった

中山選手は1985年ワールドカップマラソンで瀬古利彦の日本記録を23秒更新する快走
世間は中山選手が金メダル候補だとみるようになった

一方、瀬古利彦は監督もいないし世間から忘れられつつもあり弱気になっていた

そんな時に愛する妻から「天国の中村監督を喜ばせてあげて」と言われた

一気に弱気が吹っ飛び、中村監督に教わった事を思い出してトレーニングを積み、どんどん調子を上げていった

その結果、国際大会で3連勝

1986年4月 ロンドンマラソン
日本人初優勝

1986年10月 シカゴマラソン
自己ベストで優勝

1987年 ボストンマラソン
優勝

逆境から得た教訓
積み重ねた練習や技術は逆境の時こそ活きる

かつて中山監督から何度も「努力する天才になりなさい」と言われていた
その言葉通り努力し続けた結果が生きてきた 本当に救われた

1986年9月には息子も誕生し、人生絶好調

そして遂に中山選手との直接対決
1987年12月 福岡国際マラソン

この大会はソウル五輪男子マラソン選考会の場でもあった
五輪をかけた大切なレースで最強のライバル中山選手と直接対決

福岡国際マラソンの3週間前に調整も兼ねて駅伝大会に出場
その駅伝で左足腓骨を剥離骨折

ゴール後にタイムを測ろうと時計のスイッチを押そうとしたら足を捻ってしまった
普段んはタイムを測ったりしないが、中山選手を意識したことで普段やらないことをやり怪我をしてしまった

そのことがニュースになった後、中山選手は「自分ならケガをしても這ってでも出場する」と発言

瀬古利彦はウソつけっ!と思ったw
足がめちゃくちゃ腫れてるのに出られるわけがない

福岡国際マラソンは欠場
優勝したのは中山選手 五輪代表が決まった

福岡国際マラソンで五輪内定したのは2人
あと1人はまだ決まっていない

瀬古利彦にはまだチャンスが残っていた
それが琵琶湖マラソン

怪我を治して出場した結果、優勝!
その結果、五輪代表のメンバーに選ばれた

しかし「なんで瀬古利彦が代表なんだ!」と世間から大バッシング

その理由は琵琶湖マラソンの結果が平凡なタイムだったから
福岡国際マラソンの3番目の選手よりも悪いタイムだった

ソウル五輪選出でのバッシング内容

  • 自宅に「今から殴りに行く」と脅迫電話がかかってくる
  • 自宅にカミソリ入りの封筒が送られてくる
  • 練習していたら自転車に乗った人に「バカヤロー」と言われる

このバッシングを受けてうつ状態になり全く走れなくなった
競技人生で初めてマラソンが辛いと思った

ソウル五輪の1ヶ月前、北海道で最後の合宿があった
その時唯一励ましの言葉をくれたのが愛する妻だった
手紙をたくさん送ってくれた

そして人生をかけた大一番ソウル五輪を迎える
中山選手とライバル関係になって初めての直接対決

結果は、中山選手が4位、瀬古利彦は9位だった

3度オリンピック代表に選ばれたが金メダルと獲ることはなかった

帰国すると息子が手作りの金メダルをかけてくれた

これが瀬古利彦にとってはどんな金メダルよりも嬉しかった

人生はマラソン
残り7kmで勝負がつく!

マラソンで大変なのは35kmを過ぎてから
そこから今までの練習・生活が全て出る
走り・顔つきに出る

東京オリンピックに出場する選手には私以上に頑張ってほしい

瀬古利彦のしくじりまとめ

①好調な時に気を緩めた
②不安から練習をしすぎた
③本番前の最後の調整に失敗

教訓
プレッシャーを感じても普段通りを心がけよう

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